稲生一平のページ


木匠 ジョージ ナカシマ

 

 その時から、かれこれ半世紀近くたつ。

縁あって、流政之という彫刻家の巨匠がナカシマの個展の会場で私をナカシマに引き合わせてくれた。それ以前からナカシマの作品に心酔していた私にとって夢のような出会いであった。その後も来日の折りに何度か会って話したが、暖かく控えめな方で、その人柄にきっと樹の方が惚れたのではなかろうかと思ったことを思い出す。

 

 ナカシマは、二十世紀を代表する木工家である。大なり小なり彼の影響を受けた日本の木工家は決して少なくない。日本では誰がつけたのか木匠ジョージ ナカシマと呼ばれているが、彼はそんなスケールでは語れない。

 世界中の森を歩き、樹木と話をし、自然を愛し慈しむ。半世紀以上も前に今の地球の状態を予測していたのではないかと思われるほどに、自然破壊による環境変化に警鐘を鳴らし続けた人でもある。

 

 彼の人となりを語る作品のひとつが、代表作と言われているコノイドチェア(写真・部分)である。

この椅子は二本脚とその脚に支えられた持ち出しの座面という木製の椅子としてはとてもユニークなデザインである。このデザインの背景には工学、力学の知識と建築家として感性にあふれたナカシマがある。この一見危なげな座面を支えている接合方法は、表からは想像できない複雑な方法で組み立てられている。この仕口(しくち・接合方法)は日本独特のもので、日本建築や大工の技や道具などをつぶさに研究した人からしか発想できないものだ。更にナカシマはそうした仕事に必須の日本の手道具、刃物の扱いにも熟知している。

全体のディテールや背中のスピンドルの微妙な寸法、さらに一本一本手鉋で仕上げられる表情など極限のディテールまで美しさを探し求めている。おそらくこれほどの能力と人並み外れた視野を備えた木工家は二度と現れないだろう。

 

 ジョージ ナカシマについて語るにはあまりに少ないスペースだが、私の木楽を決定的にした巨匠の話で締めくくりとさせていただきたいと思う。

みなさん、ありがとうございました。一平

 

来春には八十の手習いで、何度となく挫折してきた自分のホームページを立ち上げる予定です。木に限ることなく、暮らしの雑事を発信していければと思っています。

無事立ち上がれば、のっぺさんのホームページを通じてお知らせする予定です。

 


感謝のかたち

 

 箱を開けると、びっくりするほど大きな干し柿がたくさん。添えられたカードには何人もの感謝の言葉で埋まっている。

私がお手伝いしている、とある仲間たちからの贈り物である。

 

 大きさがわかるようにと、懐紙を敷いて写真を撮ってみたが、あまりに巨大で干し柿に見えないかもしれない。

久々に贈り物の心に接したような気がして心を動かされた。この干し柿の形をした、みんなのありがとうに嬉しさが込み上げてきてとまらない。

カードには干し柿合宿をやって、みんなで心をこめて作りましたとある。

 なにもかもお金という尺度が横行しているご時世、豊かな暮らしをしている彼らは高価な贈り物とて決して難しいことではないし、忙しく暮らす人たちにとってそれもやむなき手段であるはずだ。

 

 そんな時代に、心を届けるということは決して簡単なことではない。贈り手の心がこれほどまでに受け手の心を動かす事ができるのだろうか。

精一杯の感謝とともに、しばしの間この干し柿を見つめている。

 

感謝というのは、この世で人間だけがもつ徳にちがいない。日々の暮らしの中、あらゆる出来事に感謝が湧き出してくる。それを伝える方法は様々でも、感謝こそが人類の和の原点の様な気がしてならない。

 

 

蛇足

この干し柿の話はどうしても書いておきたいと思ったものの、このホームページも次週を残すのみとなってしまった。急遽用意していた原稿を没にして(最終回のテーマは既に決めているので)差し替えた。

少しばかり木楽と距離があるが、柿の木というとんでもない屁理屈でご容赦願いたい。

 


手仕事の意味

 

 先日、久々に東京銀座へ家具の展示会に行った。発表会の記念品だということで小さな箱を頂いた。

透明なプラスチックの袋にはブラックウオールナット製の小さな箱と説明書、更に小さくカットしたサンドペーパーが入っていて、説明書には「自分で作る正方小箱」というタイトルと制作方法が記載されていた。

家具屋さんらしい、なかなか面白いアイディアだと思うが、高級家具を見に来るお客様の何人が、この箱を仕上げるのだろうかとも思った。

 

 この手の平にのるほどの小さな箱は、コンピュータ制御の工作機械で作られたものだが、作りっぱなしの半完成品とは言え、その精度は一流の指物師にも匹敵するようなもので、蓋を閉じる時に中の空気の抵抗を感ずるほどの精度である。

 

 きっと工作機械はまだまだ進歩を続けていくのだろうが、やがて木の手仕事は機械に奪われてしまうのだろうか。

私はそうは思わない。無論、ものによりけりだが、木という素材は作り手との対話を要求する素材なのだ。金属など安定した素材と違って、木は樹種によっても。板にする切り方によっても千差万別、あたかも我々人間に二人と同じ人はいないのと似ている。その対話を無視して、力ずくで作られたモノは、やがて作品のほうから反ったり曲がったりと不平不満を言い出すことになるものだ。

 

 サンドペーパーでどんなに美しく仕上げたところで、顕微鏡で見れば表面の凸凹が少なくなっただけにすぎない。ある家具作家はペーパーを一切使わないと豪語している。彼は自分の作る家具の曲面に必要な鉋(かんな)を作ることから仕事を始めるという。世界に誇る日本の刃物で仕上げられた表面は時とともに輝きを増していくものだ。

 どんなに技術が進歩したところで、そんな仕事が機械にできるとは夢にも思えない。日本の木工芸は、それが例えどんなに細い一本の糸ようであっても、必ず受け継がれ、世界の工芸家に影響を与え続けていくと信じている。


一枚の板

 

 どこから見ても、それは一枚の小さな杉の板。

それに僅かに手を加えることで、その板はまるで宇宙と交信するような世界を醸し出す。

まもなく陽が沈む、この板にうっすらと見える造形の光と影は刻一刻と、まるで生き物のように変化していく。

作者は意図してか、意図せざるか、このとてもシンプルな作品に時間軸を埋め込んでいる。美しい。

 

 木工作家の森田孝久さんの展覧会に行った。森田さんは茶道を楽しむ作家だが、たまたま稽古場は異なるものの師匠が同じということもあって、ご縁をいただいた。

 

 展覧会場には、お盆、花器、お皿、箱などに混じって木のオブジェが展示されている。その丁寧な仕事を一つ一つゆっくりと見ていくうちに、この作家がどれほど木を愛しているかを知ることができる。

 私は一点のオブジェを求めた。(写真)オブジェというのが正しい表現かどうかわからないが、うっすらとレリーフの抽象紋様が浮き上がる一枚の板だ。同じ紋様でもはっきりと彫ったほうが数段簡単そうにも思えるのだが、そこは技法を知らないのでなんとも言えない。

 「これは?」本人の答えは「波紋が好きなので」。

壁に架けてもと思っていたが、彼の一言で、まず床に置いてみることにした。まもなく日没という光の中で、刻々と変化していく。一枚の板のレリーフをこれほどまで美しいと思ったことはない。

二次元であれ三次元であれアートと呼ばれるものは山のようにあっても、琴線に触れる作品に出会えることは決して多くない。

見ているうちに心が静かになっていく不思議な作品だ。

 


硯箱

 

 今年もCOP28が始まった。会議の中味はさておいても、世界中に報道されるこの会議は人類にとって地球規模での危機に直面しているという認識を共有するために大きな役割を果たしているように思える。

 

 大層な話から突然微細なテーマだが、最近すっかり鉛筆にはまっている。鉛筆の限りない魅力は別稿に譲るが、ともかく最も地球にやさしい筆記具だと思っている。そんなことを考えているうちに筆と墨のことも思い出した。現在では絶滅危惧種の筆記具かもしれないが、この国で千年を超える長きにわたり使い続けられてきたものだ。自然と共存する究極の筆記具かもしれない。

 

 ずいぶん昔に、鎌倉のある名刹の依頼で写経のための硯箱を作った。私がデザインをして日本有数の卓越した職人集団の工房に制作を依頼したものだ。素材は貴重な黒檀を贅沢に使った極上のものだ。

 この仕事を喜んでお受けしたのは、まず墨を摺り、墨の香を楽しみながらお経に向かって静かに気持ちを整えていく、墨汁全盛の中でなんと豊かな写経会であろうと思ったからだ。

 そうなると、我流だが書道も楽しむ身としては、なにより硯が大切、箱はあくまでも箱であって硯と墨がどこまで言っても主役である。ところが、自分がイメージしている箱に合う硯を探すのは至難の業。一つならどうとでもなろうが、同じものを数十個となると、想像以上に難しい。なんとか見つけたのが旅硯という、原形は旅をする時に懐に入れられるほどの小さな薄い硯のようだが、これは現代の端渓硯である。

 

 ふと思い立って、保存していた硯箱を出してきたのだが、我ながら気持ちのよい姿だと自画自賛。大切にしまってきたが最早使っても良い年頃だろう。野の草で漉いた和紙に地球にやさしい筆記具を使って一時続けていた写経を再開したいと思っている。

 


もっと喜びを届けたい

 

 「木の器・漆の器 2023」展が無事スタートした。

 食は命の源であり、日々の元気の源である。そして器は必須の道具である。

どうせ食べるなら楽しく、美味しいに越したことはない。あえて一言添えるならば、決して美味しいイコール贅沢ではない。

 無論美味しいというのは味覚の問題だが、長年食器を作り続けるうちに気づくことがある。食事とは文字通り食べる事だが、人は味覚もさることながら心で食べているような気がする。一人を楽しむ食事も、いい仲間といい話をしながら楽しむ食事なども間違いなく心の栄養になる。食事は体だけではなく、心の健康にも大切な役割を担っているのにちがいない。

 

そんな食事に、器はとても大きな役割をはたすものだ。だから、作り手の私はいつも幸せな食卓での美味しく楽しい食事を願いながらものづくりに励んでいる。

 

 まだ陶器づくりを続けているが、木の器、漆の器に軸足を移しつつある。ずいぶんと昔から、木の器への関心は持ち続けてきた。

陶磁器より人にやさしく、壊れにくく、軽い。そして今では、最も地球にやさしい最先端の器であると思っている。数ある特徴の中でも、高齢者にとって軽いというのは正義だし、なんとなく不注意が増える年頃にとって壊れにくいというのも捨て難い魅力である。

 

 お陰様で今回の展覧会も初日から多くのお客様にご来場いただき、想像以上の沢山の器が旅立った。一所懸命に作ったものとて決して完璧なものではない、みなさんのお手元で喜んでいただけるかという不安はいつもある。

 私たちの器を手にしていただいた方々の食卓がより楽しく、喜びに満ちたものであってほしいと心から願っている。

心からの感謝とともに。

 

「木の器・漆の器 2023」展 和田塚 鎌倉彫工芸館にて27日(月)まで開催中


「木の器展」プレビュー

七寸のお皿

 

業界では何故か七寸というのだが、直径約21センチということだ。

色々と作ってみたり、使ってみたりする中で、最も使いやすいサイズだと思っている。

 

大きすぎず、小さすぎず、ほどよい大きさは食卓でも収まりが良い。万能皿かもしれない。朝はパン皿、昼にはちょっとした副菜やサラダ、お茶の時間には黒の七寸がケーキをとても美味しそうに見せてくれる、晩のおかずにはなんでも使える、デザートのフルーツもよく似合う。

 

今回は同じ七寸の木皿を三種類の仕上げで用意した。一つは黒の漆で仕上げた物。これはまず木地をタンニン染で墨色に染めて、摺漆で仕上げていくのだが、すべてのプロセスで研ぎをしながら進むので、それなりの根気仕事である。

二番目は、上記の最初の墨染の工程をせずに、木地に直接摺漆を重ねていく手法で仕上げたもの、漆独特の透明な色合いが美しい。三番目は、木地をオイルフィニッシュで仕上げたものだが、オイルと一言でいっても、最初の木地調整から塗るたびに研磨を重ねて仕上げている。こちらは、赤ちゃんでも大丈夫というドイツ製のオイルを二種使っている。

 

ともかく気軽に、気楽に使いたいという方はオイルがおすすめ、ただし色が褪せてきたらオイルで拭いてやるという手間が必要だ。木が好きな人には使えば使うほど変化していく風合いがなんとも魅力である。漆の利点はオイルとは比較にならぬほどの耐水性や強靭な塗膜であろう、漆のテクスチャーもなかなか魅力的だと思う。

 

「木の器」展のDMができました。お立ち寄りいただけると嬉しいです。


今年も11月23日から和田塚駅の近くの鎌倉彫工芸館で開催されます。

詳しくは添付のフライヤーをご参照ください。

 

三人展といっても、お二人はこの道半世紀という方々で、私などは、チグハグの極致なのですが、

不肖の弟子に暖かい声をかけていただいての参加です。

ご興味のある方は是非お立ち寄りください。

見習いの身の私は会期中通して会場でお待ちしています。

 


稲生一平 イノオ イッペイ 1942年、藤沢市生まれ

グループには、2019年より参加。日本の伝統工芸が好き、日本の手仕事が好き、その繊細さと美しさは、世界に類例のない日本の文化です。ある時は美しい作品を購入するお客として、ある時はアドバイザーとして、ある時は商品開発の提案者として、又ある時は展覧会のプロデューサーとして、日本の手仕事の危機を、二十数年にわたり訴え続けてきました。